【撮っておきの1冊】家守綺譚【3撮目】

皆さんこんにちは。書漂家のクロギタロウです。

永遠に続くかと思われた冬も去り、ようやくお待ちかねの春到来である。皆さんはちゃんとお花見には行かれただろうか。最近は春夏秋冬ではなく、夏夏冬冬な感すらあるほどに足早に駆けてゆく春(秋に至っては体感で2時間くらいだ)であるから、ウッカリうかうか、ぼんやりしていてまた来年、という方もおられるのでは?現に僕の近所でもすでに葉桜の緑が艶めかしく隆盛を誇っている。

それにしても、辺りを見渡してみれば、春を待ちわびたさまざまの植物たちが競い合うように短い歓喜の季節を謳歌していて、実に目に楽しい。天気の良い休日、窓際に生まれたぽんやりとした陽だまりに目を留めたが最後、老いも若きも猫も杓子も、春の野に飛び出したくて尾てい骨のあたりがうずうずしてくる。そしてそれは書漂家とて例外ではない。

というわけで春の陽気に誘われた僕も、加古川市民の憩いの地、日岡山公園に行ってきた。もちろん本を携えて、である。景色を楽しみつつ本も読みたい。そうなると手軽に読めるものがいいか。さらに欲張って内容も植物なんかが出てくると、なおいい。などと考えた結果、お供に選ばれたのが今回の撮っておきの1冊、梨木香歩『家守綺譚』である。

撮っておきの1冊 クロギタロウ 書漂家 本 読書 家守綺譚

新米物書き、家守やるってよ

本書には駆け出しの物書き・綿貫征四郎(わたぬきせいしろう)の日常が、やや古めの文体で穏やかに綴られている。時代設定は約100年前。不思議が不思議のままで市民権を持っていられた最後の時代のお話だ。

主人公の綿貫には人並みな生活を成り立たせるほどの稼ぎなどほとんどないに等しい。それでも綿貫は、危機感を丸ごと母親のお腹に忘れてきたのか、どこかぼんやりとして見える。

彼の日常を彩るのは鳥に獣、河童に小鬼、仔竜に人魚、竹精、聖母etc…と雑多で怪しげなモノたちばかり。彼を取り巻く連中を書き連ねてみたが、大丈夫か、綿貫…(もちろんまともな人間も登場する。数える程度にだが)
なかでも本書の主要な登場人物の一人、綿貫の友人である高堂(こうどう)に至っては死んでしまっているのだが、非常に堂々とした出演ぶりだ。なんというか「出たがり」で、霊体らしい幽かな感じは微塵もない。いわゆる幽霊らしく「うらめしや」なんてやらず、綿貫をからかうためだけに出てきて、そのまま帰ってみたり。随分妙なモノたちに囲まれている。

多少心配にもなるが、本人曰く「ときたま雑誌に掲載されるくらいの稼ぎでは、まず人として食ってはいけない。それで英語学校の非常勤講師もしていた」そうだ。一応暮らし向きのことも考えてはいるようである。しかし正職員にならないかという話が持ちかけられた際には、本職の物書きの方に支障をきたすと言って断っている。ぼんやりしてはいるが、案外芯の方も強いようだ。

とはいうものの、当然芯の強さだけでは飯は食えない。分かってはいるがひょいと傑作が書けるわけもなく、ちまちまと卒業以来の下宿でだらだらと文筆活動を続けるしかない綿貫。

そうこうしているうちに(途方に暮れているわけではないのが実に彼らしい)亡くなった学生時代の友人 高堂の父親が、娘のもとに隠居することになる。親しい友人であった綿貫に「家守」(今でいう管理人さんといったところか)をやらないかとの依頼が舞い込んだことで、晴れて彼は不思議が不思議でない世界の住人となってしまった。

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ぼんやり文士の効能

そんな綿貫の暮らしぶりは、各話10ページ程度の1話完結形式にまとめられており、非常に読みやすい構成となっている。季節を表す言葉に馴染みがない方にとってはややむずかしめな言葉も登場するが、シンプルに綿貫の暮らし向きを描いているので、物語を読み進めるうえでは特に問題はないだろう。分からない言葉はあとで調べればいいかなぐらいの気軽さで、自分が心地よいと感じるリズムで読んでいくのがこの本には合っていると思う。

豊かな植物の描写が梨木作品の主要な構成要素であることは多いのだが、本書も各話のタイトルに草花の名前が冠されている。季節ごとの植物たちが各話に四季の移ろいというリズムを添えてくれるので、一気読みではなく、自分の好きな季節に合わせて「つまみ読み」してみるのも面白いかもしれない。物語がスリリングに展開し、衝撃のラストに度肝を抜かれる!というタイプの本ではないので、そんな読み方ができる点もお気軽ポイントである。

そして何よりも、物語の中身や構成に負けず劣らず、本書をゆるゆると読むことを許してくれそうな雰囲気を醸し出してくれているのが、主人公・綿貫征四郎の世の中に対する姿勢だ。
不思議なものたちと出会うたびに彼が見せてくれる姿、そのなんとも言えない力の抜け具合。彼の視点を通して物語と向き合っているうちに、僕たち読者の首、肩、腰、果ては脳みそのコリまでほぐれてゆく、そんな気がしてくる。

と、つべこべ言うのも野暮なので、実際にほぐれていただこう。23話目の「ふきのとう」中、綿貫が日向ぼっこをしている小鬼を見つけた場面だ。

雪の残った疎水の土手に、何やら落ちている。よく見ると拳を一回り小さくしたほどの小鬼である。冬の午後の日差しに気持ちよさそうに寝ている。これは珍しいものである。どのくらい珍しいかといって、私の生涯にまだ出会ったことがないほどだ。

おかしいだろう。
声を大にして言おう。
おかしい!

彼が見つけたのはどんなに小さくとも鬼だ。顔なんかきっと物凄い威圧感を漂わせているに違いない。なんせ鬼だ。
日常的に見慣れているのならばこのあまりにも驚きからかけ離れた反応も分からなくもない。だが綿貫は鬼というものに「生涯にまだ出会ったことがない」と言うではないか。

頼む、恐れおののいてくれ。せめて慌てふためいてくれ。自分の生活空間に鬼、なんだぞ。「これは珍しいものである」ってなんだ。

僕もこの記事の冒頭で綿貫について「どこかぼんやりとして見える」などと迂闊に書いてみたが、訂正しよう。読んでもらえれば分かる。「どこか」ではない、綿貫征四郎は「どこもかしこも」ぼんやりしているのだ。その徹底したぼんやりぶりには、もはや隙がない(!)
いわゆるほっこりするとか綿貫の緩さに萌えるとか、そんな甘いもんじゃない。再度作中からの引用をお許しいただきたい。13話目「葛」の書き出しである。「ゆるみの極み」をお見舞いしてさしあげよう。

黒い小さな虫が腕の辺りを歩いていて肘の近くで止まった。そのままそこに馴染んだ、と思ったらほくろになってしまった。こすってもとれない。しかしさっきまでは確かに虫だった。私の肘の小さなほくろなど、誰も気づきはしまいが不思議なことである。些細なことであるから、まあいいだろうと鷹揚に構えていたが、どれくらいの不思議まで人はそういって許せるものなのか、ふと気になった。
が、まあ、いいだろう。目に映ることを記録しておくまでだ。”

……どうして?
もしも綿貫の身に起こったような事態に見舞われたとして、僕たち読者の誰一人として同じ反応をする者はいないだろう。断言できる。
冷静な観察者の目を持っているのだ、と言われる方もおられるかもしれない。そんなことはない。こんなことがその身に降りかかったならば、ブッダでも綿貫よりは感情の動きを見せてくれるはずだ。「どのくらいの不思議まで人はそういって許せるものなのか」などと考えているこの男、すでに人間の域を出ている可能性が……?

以上である。お分りいただけただろうか。
劇的なことは起こらない本書の中でさえ、緩やかながらも季節は巡るのに、彼だけはずっと春眠なのである。まるで暁を覚えていないのだ。日々の些細なことにいちいち怒ったり、悲嘆にくれたり、将来の不安に襲われたりと忙しくしている自分がアホらしくなってくる。

綿貫の脱力加減は世界を救う。毒気もストレスも肩こりも、何もかもすっかり抜いてくれる……?

撮っておきの1冊 クロギタロウ 書漂家 本 読書 家守綺譚

こともなげに生きていく

しかし、彼のこうした姿勢こそが、僕がこの本の中で最高だと考えている場面を生み出しているということも間違いない。悔しいのだけれども。

本書の第1話目に配されている「サルスベリ」の中で、人の世の行く末を信じられなくなり湖の底へと逝ってしまった高堂が初めて綿貫の前に姿を現す。この物語のすべての起点となる、序盤の重要な場面だ。

ここで見せた綿貫の姿に、僕は惚れた。
一発だ。
読み始めて数ページで、僕はこの本を傑作だと確信したのだ。

深夜、万年床の中で妙な物音に目を覚ます綿貫。キイキイというその音は、床の間に飾ってある「水辺の葦の風景で白サギが水の中の魚にねらいを付けている」様子を描いた掛け軸の方から聞こえてくる。

布団から頭だけそろりと出して、床の間を見ると、掛け軸の中のサギが慌てて脇へ逃げ出す様子、いつの間にか掛け軸の中の風景は雨、その向こうからボートが一艘近づいてくる。漕ぎ手はまだ若い……高堂であった。近づいてきた。

ーどうした高堂。

私は思わず声をかけた。

ー逝ってしまったのではなかったのか。

ーなに、雨に紛れて漕いできたのだ。

高堂はこともなげに云う。

ー会いに来てくれたんだな。

ーそうだ、会いに来たのだ。しかし今日は時間があまりない。

高堂はボートの上から話し続ける。

巷に溢れる濃いめに味付けされた劇的な再会とは程遠い、こんなにも穏やかな亡友との再会の場面があるだろうか。読み返すたびクスリ、となる。

なる。
なる。

しかる後、じわりじわりと遅効性の哀しみが胸に沁みてくる。読んでいて涙は溢れない。簡単に感動という言葉では片付けたくない。
ではどうしたら良いか。
分からない。
そう思って何度も読み返す。

何度も何度もクスリ、となる。
何度も、もの哀しくなる。

読み返さずには、いられない。どこか哀しく、優しい、この心持ちを、もっと根っこに迫る言葉で言い表すことができないか、読むたびにそんな気持ちになるのはなぜだろう。その理由を考えても考えても、答えは出てきそうにない。でも悲観することはない。綿貫と共に高堂の家を守って来た僕たちは「まあ、いいだろう」と思えるようになっているはずだから。

この本を読んでいる間だけでも、そんな心持ちになれたら、僕たちは世界をほんの少しだけ優しく感じられるかもしれない。眠りにつく直前布団にもぐりこんでから、電車での一駅・二駅の移動、待ち合わせに少し遅れることが分かっている困った友人を待つ手持ち無沙汰な時間。そんな時に気軽に読み始めてきっかり数分で1話読み終えることが出来る。

もちろん読み進めやすいからといって、本書が内容スカスカのヘチマのタワシみたいなものだと思ってもらっては困る。読みやすいけれども味わい深い。それになんだか人に優しくできそうな気さえしてくる。

これが本書を公園で日向ぼっこでもしながら読みたい1冊としてオススメしようと思った一番の理由だ。かすかな哀しみを胸に、「こともなげに」読んでみてはどうだろうか。

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この記事を書いた人

クロギ タロウ

1990年、宮崎県生まれ。大阪大学文学部卒業。紙の本を愛し、日々書物の海をただよう書漂家。在学中、2年間休学し小説執筆に挑戦。物語を生み出すことの難しさを知り挫折するも、ますます本を愛するようになる。卒業後は兵庫県の電気メーカーに就職。2018年より、写真と文章で、本を楽しむ人を紹介する「撮っておきの1冊」という活動に着手。本好きで、お話を伺える方を募集中。