【撮っておきの1冊】夢の遠近法【2撮目】

皆さんこんにちは。書漂家のクロギタロウです。

いきなりで恐縮だが、皆さんは積み木遊びはお好きだろうか。
僕は好きだ。決まった遊び方はなく、自分だけの「何か」を手軽に作り上げることができる積み木。なんなら積む必要さえなくて、三角柱や円柱のそれぞれを何かに擬して戦わせてもいい。自由度の高さと自分の想像(創造)力を組み合わせて遊べる玩具、それが積み木だ。

そしてもう一つ重要なポイントがあるのだが、積み木は僕たちに「崩す」ことを許してくれる。僕たちの日常は多くの「作られた物」でできているが、そのほとんどを僕たちが勝手に「崩す」ことはできない。壊すために作られたものはないからだ。そんな縛りの中で「崩し」の快感を与えてくれるから、僕は積み木が好きなのかもしれない……。

とここまで長々と書いてきたが、なにも僕は「積み木と崩壊のカタルシス」について語りたいわけではない。なぜならこれは「撮っておきの1冊」だから。前置きが長くなってしまったが、そろそろいってみよう。

2撮目となる今回のテーマは「つくってこわそ」、ご紹介する本は山尾悠子『夢の遠近法』である。 

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誰かが私に言ったのだ 世界は言葉でできていると

著者の山尾悠子は、1955年岡山市生まれの幻想文学作家。その幻想的で難解な作風と長期間作品発表が途絶えていたことから、幻・伝説の作家と呼ばれていた。

1999年に執筆を再開しており、2000年には単行本未収録作も含む『山尾悠子作品集成』が国書刊行会から刊行されている。本書は初期作品選ということで、精選された13作品が収録されている。「夢の棲む街」、「月蝕」、「ムーンゲイト」、「遠近法」、「パラス・アテネ」、「私はその男にハンザ街で出会った」等々、タイトルもバラエティに富んでおり、楽しむことができる。

彼女の作品の大きな特徴は、選び抜かれた言葉たちの緻密な配置と、創り出した空想世界を惜しげもなく崩壊させるスタイルにある。彼女の作品を読んでいるとつい、こんなことを夢想してしまう。

真紅の小箱が置かれた机に向かう著者の後ろ姿。背中越しに覗き込んでみると、彼女の手には銀色の光を放つピンセットと虫眼鏡。ピンセットの先につままれているのは、小さな文字だ。彼女は手先が震えないように細心の注意を払いながら、1文字ずつ丁寧に原稿用紙のマス目に置いてゆく。神経質なほどに緻密な行列が進行するにしたがい、空想世界が立ち上がる。

そんな気になるほどに彼女の作品は精緻なのである。文体が硬質であるという点も影響しているのだろう。僕がぐだぐだ言っていても仕方がないので、山尾悠子エッセンスを感じてもらうために、彼女の世界を少し切り取ってみたいと思う。収録作品「夢の棲む街」から、街の噂をささやく〈夢喰い虫〉たちの仕事の場面を。
少し長くなるが全文引用で味わっていただくとしよう。

  ……最初のうち、街の中に変化はほとんど感じられない。
陽が斜めに射した人のいない小広場では罅われた泉水盤が森閑と埃をかぶり、街角の時計台では古びた針が音もなく時を刻み続け、鎧戸を閉ざした家並は内に人の気配を潜ませたまま、森と静まりかえっている。
そのうちにふと、その街角のひとつに主のないささやき声がひっそりと浮遊する。空中の声はしばらくの間蝙蝠のようにひらひらとあたりを漂っているが、いつの間にかその声が分裂して二つに増え、三つに増え、奇妙な抑揚のある口調でしきりにひそひそと街の噂を喋りたて始める。

いつかそれは街路のあちこちに漂ってゆき、漂いながら徐々に流れ始める。声は次第次第にその数を増しながら街の噂を街路の傾斜に乗せて吹き流し、あらゆる舗道や路地を伝って水の流れのように街の斜面を滑り落ちていく。街の住人たちは、それぞれの寝床の中で、眠りながら薄く目をあけて、それらの声の語る噂話を聞く。

どうだろうか。これが山尾悠子の持ち味、立ち上がった世界の密度を感じさせる文章である。捨て読みできる文が一つもない。いや、一語たりとも捨てられない。句読点ですら。

それゆえ、彼女の作品は速読をするのには向いていない。信じられないことだが、物語はこの密度ではじめから終わりまで進行していくのだ。街や海や不思議な運行を繰り返す天体、極め付けは基底と頂上が存在しない円筒形の塔の内部である〈腸詰宇宙〉、それらが織りなす重厚な物語には、読者もそれ相応の姿勢をもって対峙しないと押しつぶされてしまう。山尾悠子は、言葉で確固たる実体を持つ世界を構築することのできる、稀有な作家なのである。

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崩れ落ちる世界

さて、山尾悠子に組み上げられた壮麗な世界はストーリーの進行とともにどうなるのか。美しさの迷宮を抜けた先に、すっきり爽快のエンディングが待っているのか。

違う。
ぶっ壊れるのである。


なぜ……?あれほど綿密に構築された作品世界たちは、何ゆえ必ずといっていいほど壊れなければならないのか。巡ってきた世界は見る影もなく、あとに残された読者は虚無感とともに立ち尽くし、美しかったのに……とこぼすことしかできない。

しかし実はこの美しさのために山尾悠子の世界は、そのはじまりから崩壊することを宿命づけられているのだ。

前述のように、彼女の文章は緻密で隙がない。彼女が指先で選別し、配置した言葉たちで出来上がった世界は、物語の構成要素以外の全てを拒絶する。彼女の世界においては、読者の視線ですら異物となってしまうのだ。

通常僕たち読者は小説を読んでいる時、作品の中に深く身を沈め、登場人物の少し後ろに立って物語が展開していくのを追いかけている。普通の作品であれば、世界は僕たちが介入することを許してくれるが、山尾世界ではそうはいかない。残念ながら僕たちは彼女の物語世界に介在できるほどに美しい存在ではないからだ。

美しさの極致に異物が入り混じるとどうなるか。バランスが崩れてしまう。歪みに耐えきれなくなった世界は音もなく瓦解するしかないのだ。 

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そして、僕たち読者自身も、どこかでこの世界の崩壊を願っているところがあるのかもしれない。
僕たちは美しいものを前にすると息を飲んでしまうものだが、彼女の文章は美で埋め尽くされているが故に、読んでいる途中で息継ぎをすることができない。読んでいるうちにだんだんと息苦しくなってくる。身体も強張ってくる。しかし活字から目を離すことができない。苦しさと恍惚とのせめぎ合いから解放されたくて、僕たちは身悶えする。

そして、その時は突然訪れる。緊張が最高潮に達したまさにその瞬間に、世界が破綻するのだ。

街は暴れ狂う激流に飲み込まれ、千の鐘楼は崩れ落ち、円形劇場の天井は一時に砕け散り、銀粉をぶち撒けたように夥しい羽毛が虚空に舞う。収録作「遠近法・補遺」には、こんな一文がある。

そのようにして滅びていくことを、彼らは秘かに望んでいたのかもしれない。無限であることの存在の疲れ、そのためには。

突然の崩壊に驚く間も無く、僕たちはあたりの空気を全て吸い込む勢いで呼吸する。そして崩壊した世界をぼんやりと惜しみつつ、再び山尾悠子の文章の妙味に触れたくなって、僕たちの指は頁をめくることになる。崩壊の際にあってさえ、彼女の指先が紡ぎ出した言葉たちはあまりにも美しかったから。

神は言葉の力を恐れたもうた

ここで本書の装丁に目を向けてみよう。カバーの装画は17世紀はじめにナポリで活躍した画家、モンス・デジデリオの手になる「バベルの塔」である。緻密さと妖しげな幻想性とが同居したこの絵は、山尾悠子の持つ美と破壊のイメージに実によく重なっている。

バベルの塔といえば、旧約聖書の「創世記」中に登場する、神に挑戦しようとした人々によって建てられた巨大な塔である。恐るべきスピードで天を衝こうとする塔の成長を目撃した神は、同一の言語を有する人間の結束力を恐れたまい、人々の話す言葉をバラバラにした。互いの言葉が理解できなくなった人々は協力することが不可能となり、塔の建築を諦め、世界の各地に分散することとなったという。

神に挑む人間の傲慢さと、現在の言語の多様性を説明する文脈で語られることが多いバベルの塔だが、それを理由に本書の装丁に選ばれたわけではないと僕はにらんでいる。塔は、言葉の持つ恐るべき力の象徴として担ぎ出されたのではないだろうか。神話にも歴史にも、「if」はないのがお約束だが、今回は「もしも」を限定的に解禁させてもらいたい。 

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もしも人類が皆共通の言語を有したままだったとしたら。人は天上の神をその座から引きずり下ろすことができたのではないだろうか。

なぜ僕がそんな不遜なことを思うのか。山尾悠子の「言葉」たちと出会ってしまったからだ。

はじめて本書を読み通した時、僕の胸に去来した感情は「畏れ」だった。山尾悠子は世界の創造から破壊までを完璧な形で全うしていた。物語の遥か高みに、まさに造物主として君臨する彼女の視線を感じ、僕は身震いした。世界の破滅は僕たちが考えうるなかでも最も恐ろしい災厄だ。
それを平然と、何度も何度も、さまざまな形で繰り返す著者の不遜さに、僕は戦慄させられっぱなしだった。山尾悠子を神と崇めたくなる気持ちを、僕は必死に抑えなければならなかった。

もしも世界の言語が統一されていたとしたら、世界中の人々が原文で山尾悠子や文学界の巨星たちの文章に触れることができたなら、人類は言葉の力でもって再び神の座に挑戦したのではないだろうか。「世界は言葉でできている」と言い切る山尾悠子は、神を恐れても、畏れてもいない。「言葉使い」たる彼女の毅然とした背中に、僕は神の似姿を見る。神にとっては幸いなことに、現在世界には数え切れないほどの言語が溢れている。

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かつて神の領域に踏み込もうとしたイカロスは、その蝋の翼が溶けて墜落した。自ら創り上げた世界の残骸を踏み台に、溶けることのない言葉の翼を持った山尾悠子はどこまで昇ってゆくのだろうか。ちゃちな積み木遊びとは比べ物にならない崩壊のカタルシス、皆さんも味わってみてはどうだろうか。

撮影場所:サンライズビル、ビアンテ寺家町、喫茶ニューウェーブ


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この記事を書いた人

クロギ タロウ

1990年、宮崎県生まれ。大阪大学文学部卒業。紙の本を愛し、日々書物の海をただよう書漂家。在学中、2年間休学し小説執筆に挑戦。物語を生み出すことの難しさを知り挫折するも、ますます本を愛するようになる。卒業後は兵庫県の電気メーカーに就職。2018年より、写真と文章で、本を楽しむ人を紹介する「撮っておきの1冊」という活動に着手。本好きで、お話を伺える方を募集中。